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 一心敬礼

私は釈 正輪(しゃく しょうりん)と申します。
昭和53年に出家して以来、一介の僧侶として今日に至っております。寺院の出身ではありませんが、仏縁あって臨済宗、真言宗、天台宗、曹洞宗等を研鑽しながら法縁を頂いてまいりました。

釈 正輪という名前の由来ですが、これは大韓民国の禅宗一派である曹溪宗の僧名です。この名の経緯には不思議な縁がありました。それは最初の師であった当時、臨済宗妙心寺派管長で、正眼寺専門僧堂師家(住職)でもあられた (故)梶浦逸外老師と、韓国曹溪宗管長、白羊寺住職(故)李 西蓊大宗正との関わりが始まりでした。実は若かりし頃の二人の師は、ともに京都にあります妙心寺派大本山、妙心寺専門僧堂で修行され、以来竹馬の友として交流しておられました。また西翁老師の衣鉢を継いだ直弟子に、日本曹溪宗高麗寺管長、普賢寺住職、釈 泰然大宗正がおられます。私はその釈 泰念師とのご縁も深く、西翁老師より「印可」を拜頂し、曹溪宗の末席を汚す僧侶となりました。正に「妙法」ともいうべく仏縁です。
さて、釈の「道号」は釈 泰念師の釈から頂戴したもので、正輪の「いな」は西翁老師より授かりました。「人の和を重んじ、世界の平和の輪を繋ぐ」という意味での命名でした。
私くしは一介の僧侶にほかなりませんが、昨今の日本仏教界の状況を見るに、釈尊伝来の仏教精神が希薄になり、益々形骸化の一途を辿ることに、仏教衰退の危機感を感じておりました。

聖職者の活動は伽藍維持や儀礼が主体であるべきではなく、如何に衆生を救うかにあります。寺院にはそれ自体、衆生を癒す働きがありますが、しかし僧侶本来の責務とは、人々に「今を力強く生かさせる」勇気を与える為の流布でなくてはなりません。
私は陸続と継承される祖師相伝の真理と、信仰の必要性を説くことが今こそ大切だと考え、2005年より寺を出て、信仰の実践者として衆生を導く活動を始めました。大衆と苦楽をともにしながら、漆黒の闇に一点の光明を燈すことが出来れば幸い思っております。
今、時代は混迷しております。格差を余儀なくされ、人心は益々乱れ、人間のエゴイズムが跋扈する現代です。このような時世には必ず災禍が起こります。有事の危険度も日に日に増してきています。紛争や戦争に於いて尊い命が奪われること自体由々しき問題ではありますが、私しが一番危惧するのは、孤独感に苛まれた人々が自らの命を断つ行為です。人の命はかけがえがなく尊いものですが、現実はとても辛く苦しいものです。しかしその苦肉を乗り越えた時にこそ、人間は人生の本懐を知るのです。
釈尊は申しました。「この世はなんと辛く悲しいものであろう。しかしまたなんと甘味なものでもあろうか」と。人に必要なのは無償の愛(仏教でいう慈悲)です。 私たちに必要なのは、宗教を学ぶのではなく、一人一人が信仰の実践者となることです。
私は毎年各国のファンデーションやソサエティならびに宗教団体からの呼びかけに応じ、平和活動や宗教者会議等に出席させて頂き、更にはマッカ大巡礼やヨルダン川においての洗礼も授かりました。それにより一つの考えに到達し、細やかながら今では宗教間の壁を取り払う努力をしております。この目で見て、聞いて、体験した経験があればこそ、宗教に差異はあれど差別はないと知り、また宗教の普遍的根源は共に同じである真理を得たのです。真理とは変わらぬ絶対無二のものでなければなりません。歴史背景や風土気候の変化から教儀や手法にこそ相違はあるものの、人がこの世に存在する以上、本質的な部分は何ら変わる事がないのです。
仏陀が説く「慈悲」も、イエスの「愛」の教えも、ムハンマドが予く「慈愛」も、古今東西聖人・賢哲等が教える道とは、人が人として如何に生きるかを伝えたに他ならないのです。これこそが「真理」なのです。この真実を語り次ぐことこそが私くしの使命と確信致しております。
ニューナチュラル(新たな宗教や信仰)を羨望する人類にオールドナチュラル(いにしえより伝えられし真理)を教え伝え、衆生の喜怒哀楽の先達となり、「今を生きる」大切さを皆様と共有したく存じます。

                                                             

合掌
釈 正輪 九拜

 

    


  

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