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INDEX
1.大念珠祈祷会
2.大念珠奉納と平和祈祷の旅(ロシア バイカル湖)
3.鳴戸祈祷



   大念珠祈祷会2000年(平成11年)に大念珠製作者の林 寛至氏(大念珠庵主)を筆頭に、釈正輪師(日本国)、崔 无碍師(チエ・ムエ、北朝鮮民主主義人民共和国)、宋 静悟師(ソン・ジョンゴ、大韓民国)三国の有志僧侶が、大念珠を作りそれを世界各地の聖地に安置し、世界平和祈願をするために始めた運動
 大念珠の材質はアフリカ カメルーンの広大な大地に君臨した樹齢2000年の大木ブビンガ(直径約3m)を球状に加工。
親玉は直径約75cm、200kg、小玉は直径約43cm、50kgとし、人の煩悩の数を表す108個繋ぎ合わせ一連の数珠にしたもの。
一番大きいもので、全長50m、総重量6t
 

 2001年  大阪府 大阪市 統国寺奉納祈祷
大韓民国と北朝鮮民主主事人民共和国を結ぶ在日仏教の代表寺院
 2002年 岐阜県 関市 円空会館奉納祈祷   
2002年 大韓民国 観音寺奉納祈祷
南北統一を願い北朝鮮へ奉納する数珠を含め2本奉納
北朝鮮民主主義人民共和国への念珠は、妙高山普賢寺へ奉納予定 
 
 2003年 インド国 ブッタガヤ 
世界遺産仏塔内に母玉奉納祈祷
 
 2006年  中華人民共和国 集安「旧高句麗聖地」
(旧満州)白蓮寺奉納祈祷
政治的な理由から大数珠を持ち込むことができず、小玉の数珠を4人(林、釈、崔、宋)の手荷物で運びこんでの奉納
 
 2007年 徳島県 長満寺奉納祈祷
インド ブッダガヤで洗礼を受けた数珠を奉納 
 
 2008年  モンゴル共和国 ウランバートル市
ダスチョリン大寺院奉納祈祷
モンゴル国営の大臣、チベット密教寺院
一般公開式典は国営体育館、相撲大寺院で行われ、2500人の人が集まった

 
 2008年  ロシア連邦 ウラン・ウデ市
チベタンセンター寺院奉納祈祷
 
 2008年 宮崎県 霧島東神社に奉納   
 2009年  中国吉林省敦化市、六項山正覚寺に奉納
ここは渤海(ぼっかい)国の中心地
 
 2009年  埼玉県 飯能市 釈正輪 宗務所  

 今後の予定
アメリカ合衆国ネイティブアメリカン聖地
中東(エジプト)
南米(アルゼンチン、ペルー)
南半球オセアニアなど
世界聖地に安置して、世界平和祈願をなす。
 

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ロシア連邦チベタンセンター寺院
大念珠奉納とバイカル湖平和祈祷の旅

目次
1.ウランバートルへ
2.ロシアへ入国ーモンゴル国境越えー
3.ロシア立役者の方々(ロシア人の父母)
4.ブリアートの昼食
5.モンゴル大平原からシベリアンツングースの原野の陸路
6.北方民族
7.大念珠奉納
8.バイカル湖への陸路
9.バイカル湖畔
10.
11.バイカル湖の聖地と世界安寧祈祷
12.サバイバル料理
13.石!石!石!
14.民族の星ー北斗七星ー
15.北方亜細亜民族
16.帰国

*[バイカル湖考察]

2008年8月30日より9月6日(八日間)

1.ウランバートルへ
8月30日午後13時20分、成田国際空港よりモンゴル航空にて一路モンゴルの首都ウランバートルへ。
午後5時空港到着(日本時間午後6時・1時間の時差)
ジンギスカンホテル宿泊。
(モンゴルでは五つ星ホテルらしく、私達日本人は大方このホテルに泊まる事がある。モンゴルではインフラの整備が整っておらず、日本のゼネコン等の建築土 木技術者が多く訪蒙している事に気付く)
2.ロシアへ入国-モンゴル国境越え-

31日早朝よりロシア連邦ウラン・ウデ(モンゴルからロシア国境に一番近くの市であるが、主にブリアート人の居住区でもある)に向かう。
モンゴル首都ウランバートル市内では土木工事インフラ不備と、道路交通設備が整っておらず、信号機がないことから、危険と大渋滞を絶えず起こしている実状である。
さて我々はこれからウランバートル市内から約350㌔の道のりでロシアを目指す。
当初モンゴル人ガイドのバット氏の自家用車、日本のトヨタランドクルーザーの新車で陸路を踏破する予定であったが、ロシアでは確実に盗難に遭うとの事で、急遽15年落ちの中古車、イギリス製ランドローバーディスカバリーで行くはめになった。
モンゴル国境の税関では、陸路の為モンゴル出国を待つ車でごった返し、早くて一日一般的にはまる二日を用するので彼らは車内て投宿するわけだが冬季はいかがするのだろうか。 
さて我々一行(日本人二人にモンゴル人二人)は特別なモンゴルルート(国境警備隊や、軍当局、地方警察及びロシアンマフィア)と事前の計らいにより、難を 逃れ約1時間の待ちにて国境を通過、約500㍍の国境線を走り次にロシア連邦税関に入る。
実はここが最大の難所、所謂関所であり実際、モンゴル人でも容易に入国出来ない隣国に、
意図も簡単に入国出来たことをモンゴルの要人さえも驚愕していたほどだ。これに関しては「蛇の道はへび」とだけ申しておこう。
さていよいよロシア連邦に税関にトライ。こちらの入国に関しても先のモンゴルと同じく、いろいろな手段を用い、モンゴル以上の綿密な計画と周到な根回しをしておいた。
こちらも入国には一日を用するところ約30分程で通過、はれてロシア連邦に入国成り。しかし、至る所に国境警備隊と監視警察の目が光り、しばらく緊張のおもむきであった。
本来ならば彼らを余所に、何も無く通過する事は極めて困難であり、何かしらの賄賂が必要となる。何処の国にも表もあれば裏もあり、国や人間の醜さを如実に感じせざるにはおれない。


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3.ロシア立役者の方々(ロシア人の父母)母)

国境から約40㌔辺り、ここはヒャクトと呼ばれるロシア最初の小さい町である。
一行はここで昼食休憩をとる。ここは、日夜車を運転してくれた、モンゴル人ドライバーのオディ氏が、ロシアの母親と慕うカゼィル婦人が経営するロシアンレストランである。
何故、オディ氏がカゼィル婦人を母親と慕うかと言うと、親子程放れた年齢と彼の人懐こい性格にありる。
私達日本人にも細にわたり気を使ってくれたほどだ。
さてここで今回の 旅と、大念珠奉納に欠かせない、とても大切かつ重要な人物が登場する。カゼィル婦人の友人と言われるその人は、オディ氏がロシアの父親と慕う、元モンゴル 人男性である。彼の現在の仕事は医師であるが、ソ連が外モンゴルを統治し、後にソ連領とした際に、彼はソ連の陸軍軍医となり、やがて大出世し国境警備隊長 の要職を務めたと聞く。 引退後もモンゴル人ソ連人のために尽力し、両国の軍人や現在の両国国境の民衆から慕われているのだ。
モンゴル国出国に際しては彼の夫人に世話になり、ロシア入出国では医師の力を借りた。彼はフリーパスポートで自由に両国を行き来出来る人物なのである。当 然軍家や政治家、更には暗黒社会とも通じる要人である事には間違いない。
4.ブリアートの昼食

ロシアンレストランのメニューといえば先ずウォッカの一気飲みだ。度数40°のアルコールは喉が熱いというより、感覚が麻痺する程の痛さがある。
ロシアでは毎朝ウォッカグラスに駆け付け三杯、午後には五杯、晩には一人一本から二本を飲用しないとロシア人には認められないのだ。ロシア滞在中の五日間は大変だった。
食事はブリアート料理で、必ず鮭の燻製がありこれは食が進む、定番は固めの麦黒パンに純粋なハチミツを塗る。混ざ気のない純度100%のハチミツは酸味があり、舌に溶ける感触がなんともいえない。
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5.モンゴル大平原からシベリアンツングースの原野の陸路

この季節(九月)モンゴル大平原(モンゴル高原やゴビ砂漠)や丘陵の草花は枯れ、早々の冬支度の様相を醸しだす。
そう言えば前回訪蒙したのは、一昨年前の五月であった。この時期大平原では遅くの春を様し、やはりまだ草花は芽を出していなかった。
6月7月8月と短い春と夏が同時にやって来、はやばやと秋が終焉し、永い極寒の冬の大地と変貌するのだ。
聞くところによると、マイナス40度も珍しくないと言う。草原では放牧の馬や牛・羊に遭遇し、稀にゲル(モンゴル遊牧民の移動式住居)を見掛けることがある。
彼らは水の必要性から、必ず河川や湖池の近くで暮らす。また子供達は短い春夏以外は、全員町村の集合学舎で寝食と勉学を共にする。さぞ親や子供達は寂しいことであろう。

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6.北方民族

ウラン・ウデまで約250㌔の道程は、モンゴル大平原とは一変を様し、白樺が連立する清々しいシベリアツングースの原野を駆け抜ける。
ウラン・ウデに入ると、東洋系(ブリアート人のモンゴロイド)と青白い顔の北欧民族系(コーカソイド)のロシア人が混然一体としている。
一見米国の首都ワシントンDC郊外と見間違う様な簡素で静かな町並みが形成されている。
ここはAD6世紀北方亜細亜の大国契丹(きったん)があった場所で、さらに東には勃海国(旧満州)がある。 
この地域の人々の言葉は基本的にロシア語だが、同じ民族間ではブリアート語を話す。
ブリアート語の語源は、ユーラシア大陸の内陸部より北方は古代より、ツングース語(満州語・女真語)や朝鮮語(古代朝鮮語)・ギリヤーク語・ウイグル語・ モンゴル語・チベット語・ビルマ語・ウラル語群・アルタイ語群・チュルク語群・ドラビタ語群等と言ったアルタイ山脈地域の言語であり、日本語の文法体系 (主語ー目的語ー述語)と似る膠着語である。
また血統的には成人性T細胞に含まれるATLウィルス、即ち白血病キャリアが多い日本人のアイヌ民族や沖縄の熊襲民族に共通するのは興味深い。

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7.大念珠奉納

この日はウランウデのホテルに宿泊。
翌日9月1日午前10時よりウランウデ郊外にある標高400㍍程の1番小高い山に、ロシア連邦では最も権威がある仏教寺院(チベット密教)チベタン(チ ベット)センターに大念珠を奉納。
(念珠は予めトラックにて寺院に運ばれている)
300人を超える信者達が見守る。
長老リンポチェ猊下の導師の元、住職ラマ、テンジン師や僧侶10人の荘厳な読経の中、祈祷会はしゅくしゅくと始まった。

私と大念珠製作者の林氏はともに般若心経一巻と、光明真言を七遍唱え平和宣言文を詠みあげた。
北朝鮮及び中国でもそうであったが、イデオロギーの統制された国に於いて、その昔宗教は弾圧解体の標的であった。
昨今では地域民族の暴動や、独立を中央が危惧して政治統制に於けるプロパガンダ等が、ある程度柔軟になって来ている傾向にあるが、しかしそれでもなにがし らの圧力が感じられた。
ロシアに於いてもしかり、信者等の重鎮のほとんどが裏に精通する人物達であることがわかる。度重なるランチやディナーの招待の席ではかならず、日本や日本 人の現状を問診の如く聞かれた。

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8.バイカル湖への陸路

9月2日早朝、我われ一行はウランウデのホテルを出発、いよいよ念願のバイカル湖を目指す。
運転手はタフガイなオディ氏である。彼は30日のウランバートルよりずっと運転をしている。
聞けば全く疲れはなく、米国に赴任していた際、西海岸より東海岸まで一人で三度往復したらしい。 
ウランウデよりバイカル湖までは約600㌔の道程。風景はモンゴルの広陵とした大平原から、松などの針葉樹や白樺などの落葉樹に一変する。
道路も砂埃を巻き 上げ踏破する陸路から、程よく舗装されたシベリア原野をひたすら走る。すれ違う車両も少なく、大地を我がもの顔で駆け抜ける気分は、爽快のなにものでもな い。この白樺原野も元はモンゴル国であり、古代にはブリアート人の居住圏であったが、今ではロシア連邦政府の所有地である。
9.バイカル湖畔

午後3時バイカル湖を一望出来る湖畔のコテージに到着。
この日はここで宿泊するが、外見は善いのだが、内装は雑で木々の重ね組立にも隙間がある。真冬マイナス40度以上と言われる極寒に仮に投宿する場合この部 屋はどうなるのか。
些か不安になったが、少なくともそのような時期にここを訪れる事は先ずないであろう。
さて我々一行が宿泊したコテージ風のホテルはバイカル湖全体から東南に位置する湖畔の宿で、湖まで200メートル歩いても5分足らずの場所に建設されていた。
聞くところによる と、このホテルは一昨年開業するものの、ロシア連邦政府の体制が変革したとのことで、湖からほぼ100メートルの場所にこの建物があったのを、昨年強制的 に取り壊されたらしい。我々は、今年新に建設しているさなかの、一部開設された個所に投宿したのである。社会主義体制とはかくも無駄な事をするものか、と 思わざる得なかった。
この日はロシアの科学者達約100人ほどの団体も宿泊しており、食堂では場所を確保するのに一苦労した。
食事はと言うと至ってシンプルで、基本的には三度の食事は同じメニュー、主食はライ麦パンにコンソメスープ。おかずは鮭の燻製にジャガ芋の塩茹で、南瓜ピーマンの煮物等。
肉類は余り記憶にない程ヘルシー指向だったが、問題は朝昼晩のウォッカの嵐。
冬季極寒の地で暮らす彼らは、体質的にアルコールには強いものの、三度三度酒では流石にアル中は多かった。
実は北欧・ロシア人はアセトアルデヒド分解酵素(アルコールを肝臓で分解する)が多いので彼らは基本体質として酔わない、そこで安心して男女ともばか飲み するのだが、物事には限度というものがある。
度を越せばいくら酔わない体質といっても病気になる。婦人のアル中は初めて見た。
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10.

ここの宿泊所には大柄な熊を二頭飼っており、頑丈な二重の檻に入れられている。
常用していたフランクフルトと牛肉を差し出したが、凄い勢いでぺろりと一瞬に平らげた。飼育員(従業員)の言うところ、この辺りでは近年この様なベアーが 出没し家畜を襲うそうだ。
そういえば日本に於いても、山林での食べもが枯渇してきたせいで民家近隣まで餌を求めて下降し事件が相次いでいた。その昔、私しが山谷で修行していた時代、幾度となく熊(月の輪ぐま)に遭遇し、危険な目に会った事を懐かしく思いだした。

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11.バイカル湖の聖地と世界安寧祈祷

昼食を終えた我々一行は休む暇もなく、バイカル湖の北東にあるといわれる、聖地へ向かう事とした。
コテージ近くの湖畔からボートをチャーターするものの、四人乗りのモーターボートには、現地案内のロシア人二人が我々四人の他に乗船する。
一人は船前を背に我々を見る形で座り、もう一人は船尾に舵取の為に座る。
大人六人が定員オーバーに乗船し、しかも全員の平均体重は70㌔㌘以上。この小さなボートには確実にプラス三人は乗っている事になり、9人分の重量があるわけである。よってボートはかなり沈み、水もにかいの主軸が触る状態であった。
黄昏れときのバイカルは、西の水平線に沈む太陽が湖畔に写る夕日に溶け合うと幻想的なマジックアワーをかもしだす。

我々一行は目指す中洲に到着。(中洲といっても実は島なのだが島名を記憶していない。)
ここは一周が約五㌔、湖畔から直ぐに標高約三百㍍の崖山があるのだが、それが霊山であるとボートのガイドの一人が言った。
早速私しはオディ氏とバット氏を従え山頂を目指し短い登山を開始するが、林氏はその体型から辞退し、ひとり湖畔にて石集めを始めた。
山は岩盤で鋭角な丘陵のためサンダルを履いていた私は滑って安定しない、そこで裸足になり登山を始めた。そういえばスリランカのシギリアロックも何度も裸足で登ったものだ。

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12.サバイバル料理

下山すると、ロシア人のガイド二人が火をおこしていた。何かと思い近付いてみると、彼らがバイカル湖で釣ったという名前は忘れたが、30㌢ほどの鱒に似た魚である。近くの雑木林で採ってきた長木に刺し、岩塩を振り、串刺しにした魚を、おこした火の回りであぶる。
ほど好く焼け焦げた魚に、ロシアンベークル風のパンに、やはりロシアンゴーダチーズをサバイバルナイフでスライス。極めつけはやはりウォッカを二本を皆で 回し呑み。まさにサバイバルな御馳走を振る舞ってくれたのである。
その後、湖畔周辺に散らばる石を私しと林氏は目の色を変えながら採取する。
と言うのも、バイカル湖周辺の浜辺?の石群は宝石なのだ!
白水晶、黒水晶、翡翠(玉)銀や銅等が混入した鉱石、偏平した玄武岩、その他様々な石がまばゆく散乱している。沈みゆく西日に輝く光景は、正にこの世の西 方極楽浄土を垣間見た感があった。


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13.石!石!石!

私と林氏二人は、とり憑かれたかのように必死に石を採取するが、ふと思った。帰国の際必ず積載オーバーになるではないか。
小石でも重いのに、一つ3㌔から5㌔もある石を10個以上も集めている。どぅやって持って行くのだ!仮に持っていけたとしても税関で没収は確実。
更に追い打ちをかけるようにバット氏が言う、バイカルの石は神様だから持ってはいけないと。 ガーン!
宝物を目にしながら持っていけないなどと、なんとも残念。私しと林氏は呆れ返るよりも、もはや笑うしかなかった。考えれば確かにそうだ。私達は神に試されたのである。私しの心の中にまだしっかりと物欲があったのだ。

私しと林氏はまた拾い集めた数々の石を、読経しながら一つ一つ丁寧に河岸に返した。 するとバット氏が言った、少しくらいならばいいですよ。空港で私しが何とか致しますから。
はぁ~、私しと林氏は顔を見合わせニッコリ。またまた小さな小石を少しだけ所望した。
何とも業欲な、我ながら情けないが、綺麗なものに負けてしまった。その石は当寺別院須弥檀に安置してある。
黄昏れに沈み逝く夕日に向かいながら、一行を乗せたモーターボートは相変わらず水しぶきをあげながら、ふるスピードで乗船した船場へと向かう。水中を走るというよりは、ほとんど空中を飛んでる感がある。
乗船重量をはるかに超えてはいるが、スピードが出ているだけに着水した際の水は半端でなく被る。よって我われはびしょ濡れ。ガイドがカッパを着用していた意味が今わかった。
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14.民族の星 -北斗七星-

早々に着替えを済ませた私しと林氏は、バイカル湖畔に向かう。世界安寧祈祷を行う為だ。
私が般若心経を唱えるなか、林氏が祈願文を声高だかに詠みあげる。
夕凪が一巡すると、バイカルは強い風が舞い始めた。
水平線に日がゆっくり沈み始めるころ、北に一つ神々しく輝く星が現れる。1番星の金星だ。宵の明星といって、北に進路をとる昔から船乗りの羅針盤になっていた。
急に冷え込んできた。10月といえども、朝晩は零度近くになる。風がある分、体感温度はマイナスに感じるのである。
私達は読経を済ませコテージに戻る。直ぐに夕食になるが、質素なブリアート料理だが美味である。寒い国だけに塩分が高い料理である。とくに魚(鮭・鱒)の燻製が多い。
観光客と季節労働者が決まった時間内で一緒にレストランで朝昼晩と食事をするのだが、メニューはなく皆同じ食事なのだ。やはり社会主義国の一貫を垣間見た感がある。
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15.北方亜細亜民族

夕食を済ませ夜の散歩に出かける。冷気だが清々しいく身がしまる。
ふと夜空を見上げると満天の星空。 驚愕した。私しは修行中綺麗な夜空は幾度が見たが、こんなに満天で、しかも一つ一つの星が大きいのは初めて見る。手に 届くほどに、と言う言葉は本当なのだ。
更に驚く事を発見!それは北斗七星が真正面に見るのだ。頭を上げ首を反らなくてもよいのだ。これもまた一つ一つの星がばかでかい。
バイカル湖はユーラシア大陸の北西に位置するが、歴史民族史観からいうと、北方亜細亜に位置する。この地域はロシア連邦というものの、古代亜細亜民族のブリアート人居住区でもある。
古代亜細亜にはその昔、北斗七星を信仰する民族観があり、彼らはスキタイ騎馬民族と言われている。我が祖国、日本でも古代は北斗七星を信奉し、古墳は疎 か、都(藤原京・平城京・平安京等)の造営さえも北斗七星を基礎としているのである。
北斗七星を主に四神相応により結界を結ぶ国造りは、北方亜細亜民族特有の思想でもあることを思うと、ここは日本民族のルーツ。 私しは因縁としてここにた どりついたのかも知れないと、感慨深く感無量の思いに一人心奮わせていたのである。

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16.帰国

明日は早朝よりまた長い長い陸路を走り、モンゴル国ウランバートルへと向かわなければならない。私しは古代に夢を馳せながら早めの睡眠とする。
翌日早朝4時にバイカルを後にする。私しと林氏は旅の疲れから車中で直ぐさま熟睡だが、バット氏とオディ氏は全く眠気もない、大陸の人間はまことにタフだ。
ロシアの白樺大地を越えモンゴルの荒涼とした大地を抜け、夜10時半にやっとウランバートル市内に入る。
夕食は私達行きつけの韓国料理で焼肉を食べよう、ということで満場一致するものの、我われ四人は疲労困憊で余り食が進まなかった。彼らも疲れていたのだ が、私達日本人に気を使っていたことを知ると、私しはあらためて感謝の気持ちでいっぱいになった。ありがとうバット、ありがとうオディ。
私しと林氏はモンゴル国五つ星ジンギスカンホテルで最後の一夜を迎える。
翌日早朝バット氏とオディ氏両氏の出迎えで、空港まで送って頂く。

今回のロシアバイカル湖の旅は最初で最後となることだろう。しかしここで出会った人々は何処懐かしく、いにしえの旅であった気がする。生きてこそ出会えた 素敵な人達、顔や言語は違えども皆心優しき人間、私しは魂の旅をさせて頂いたのだろう。

合掌


合掌

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[バイカル湖考察]

バ イカル湖について非常に興味深い話しがある。東アジアの動物化石から生物相の発達史を研究する、豊橋市自然博物館のスタッフで学芸員でもある松岡敬二氏 が、バイカル湖にしかないはずの淡水海綿の化石を、私しの故郷、木曽川上流で発見した。また新潟県や長野県には、新屋遺跡(16500年 前頃)に代表される、楔形細石刃核をもつ一群が広範囲に分布している。この細石刃文化は北アジアから日本列島へ拡散した文化であり、ナイフ形石器ではな い。この細石刃文化の故郷が、バイカル湖周辺であることは、今や学界の定説ともきく。また細石刃は、木や骨にいくつもはめ込んで道具として使用されたらし く、シベリアでは3万年前のものが発見されている。これはいったい何を意味するのだろうか、もしや人類の起源はアフリカ説ではなく、バイカル湖周辺のモン ゴリアンこそが、人類の祖先である可能性が高いのではないだろうか。「バイカル湖・森野浩、宮崎信之著」「日本人は何処から来たか・松本秀雄著」「2010年世界大変動・佐野雄二著」。
日本列島や朝鮮半島、ならびにバイカル湖周辺や沿海州の地質を調査すれば、民族観に関する推察が露見できるはずである。文中にバイカル湖周辺民族が日本人 のルーツであると推察したが、これには実証がある。松本秀雄氏(大阪医科大学教授)の見解であるが、血液内に含まれる遺伝子、その中でも人種の違いを識別 できる血液型Gm型遺伝子を分析した結果、モンゴロイドと呼ばれる人種には二種有り、南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドに分けられるそうだ。その中 でも日本民族の素地基層は北方系モンゴロイドに属し、なんとその源流はバイカル湖畔にあるという結果が出た。

20101025日、 理化学研究所の研究チームが、日本人一人全遺伝情報(ゲノム)を解読した。古来より日本人は繊細な感覚を持ち得ていたが、最近の遺伝子学はこれを立証した。この繊細な遺伝子は、古来バイカル湖周辺民族より、陸続と継承されたDNAではないだろうか。バイカル湖の公表年代は約2000万 年前といわれているが、この周辺に居住する古民族ブリアート人(古代契丹国)の顔立ちは日本人そのものだ。バイカル湖近隣には大変興味をそそる伝承があ る。それは「神さまがバイカル湖をつくるとき、掘った土で日本もつくった。だからバイカル湖と日本は兄弟だと」。バイカル湖は不思議な湖で、今でも年間約5㌢ほど拡張している。また水深は最深部で1643㍍、平均で730㍍と、世界一の深さを持つ。文中に写真を掲載したが、バイカル湖の沿岸域は、ほとんどが小石や岩等の花崗岩、さらに翡翠やマンガンなどの海底鉱物がひしめき、重なり合っていた。湖面は朝日を浴びて銀色に輝く銀波、夕日に照らされて金色に輝く金波。生物は、約2600種が生息。種類で60%、生体量で90% 以上が、ここにしか生息していない固有種だという。私達一行は、虹鱒に似た魚を釣りあげ食べたが、淡白な白身魚だった。珍しい魚では、水面から千㍍を超え る深さまで難なく上下し、網で船上に引き上げると、胴体の脂肪がたちまち溶けて骨だけになるゴロミャンカという変わった魚や、湖の天然浄化を担う、ミジンコに似たエピシューラという微小動物的なものがいるという。バイカル湖だけにしか生息しない淡水アザラシ等、本来、海の生物であるはずの生き物が、何故バ イカル湖に閉じ込められているのか、興味は尽きない。さて、バイカル湖の湖底の真下ではマントルの対流が上昇して、ユーラシア大陸を真っ二つに分ける地球 の裂け目、バイカルリフト(隆起)があり、バイカル湖付近には50以上の温泉が沸いているのだ。バイカル湖は正に地球創造の起源といえるだろう。

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鳴戸祈祷


鳴戸の祈祷は、毎年五日の前日に入り、鳴戸ルネッサンスホテルに宿泊する。
異風な僧侶四人は、今ではホテルの従業員皆の知るところとなり、なかなかよくして頂いていて感謝。

祈祷当日は午前4時起床、午前5時漁港に移動、5時半より漁船を繰り出す。
船長は我われの世代。 この漁場では有名な漁師でワカメ漁を主とするが、鯛漁の時期ともなると、50㌢以上の大物を吊り上げる事もある。

最初の三年間程は、一体何をする連中なのかと疑われた。6月6日6時だから、悪魔の儀式オーメンですかなどと、訝しがっていたが、毎年ともなると、何かと 協力してくれることには有り難い。

漁港から10分も走らすと、鳴戸大橋の橋げたに到着する。
大渦はこの周辺で沸き起こるが、とくに大潮の時などは海流も速く、危険である。
今年は大潮に遭遇する。

今年(2009年度)はわけあって、6月9日に鳴戸での祈祷を行う。
今回は宋師欠席の元、三人での祈祷となった。
現地では先ず崔師を中心に林師が千手経を読経し、続いて私しが大悲咒と観音経を読経した。その際、林師が供物をわだつみ(海の神)と御仏に奉納するのである。

典礼事はしゅくしゅくと厳守されていく、そして終了後は決まって鳴戸の海水を戴いてくるのであった。さて、今年は例年と違い、あるところから特別な祈祷を依頼されたのである。
わけあって依頼主はあかせられないが、なかなか大変な祈祷であった。一連の行事を終え、我われ一行は一路大阪に帰寺したのである。

   




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