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INDEX

1.高賀山洞戸の六社巡りとは
2.六社巡り復興理由
3.洞戸六社巡りと修験道
4.妖魔の本当の意味
5.シンボルマーク
6.扶余族(ぷよ)
7.熊族(や)、虎族(いぇ)

 日本の源流を解く
 -六社巡り--
 

高賀山洞戸の六社巡りとは

高賀山は洞戸と板取、郡上市八幡境にそびえ、標高1224.2Mの高さがある。南東に南東に瓢ヶ岳(ふくべがたけ:1162.6メートル)、南に今淵ヶ岳 (いまぶちがたけ:1048.4メートル)がそびえる。これら三山の東側を長良川が南流し、北をその支流那比川、西側から南側へと長良川の支流の板取川が 流れる。この三川に囲まれた一画は古くから山岳霊場として開かれており、高賀山はその主峰であった。

六社は、高賀神社、本宮神社、新宮神社、星宮神社、美濃市瀧神社、金峰神社。

山岳霊場として成立する開闢伝承は、星宮神社縁起(経聞坊蔵)・高賀宮記録(高賀神社蔵)などによれば、霊亀年間(715年~717年)福部岳(瓢ヶ岳) に容姿・啼声が牛に似た妖魔が住み村人に危害を加えたため、養老元年(717年)勅命を受けた藤原高光なる者が、高賀山の麓に国常立尊・国狭槌尊等の諸神 を祀り、その加護を受けて妖魔を退治した。しかしその後も妖魔の亡霊が出現したので、虚空蔵菩薩を祀り、その加護で退治に成功したため、高光は退魔随縁の 6ヵ所に神社を建立したという。そして、江戸の中期に「六社めぐり」という信仰集団が形成された。山道を駆け抜けて、六つの神社を一日で回る修験道的な要 素の強いこの信仰は、妖霊を封じ、以後の平穏を約束するもので、庶民の間にまたたく間に広がった。

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 六社巡り復興理由

●六社巡りと修験道


歴史的背景は上記の文章に記した通りであるが、いつ頃かそれに修験道が関わりを持つようになってくる。古来より、山岳で修行する事に霊性を見出した日本独 自の宗教ともいうべき雑密は、修験道の開祖役小角(えんのおずぬ)によって、本山派(天台宗)当山派(真言宗)へと変貌し、正統派密教の一部として確立し て行くこととなった。この修験道こそ、日本人の霊性と感性に沿った信仰であった。 日本人の霊性と感性とは、人間同士は互いに慈しみを持ちながら融和し、 自然とは同化を試みる日本特有の和の精神のことである。しかし、残念ながら昨今の日本人は共生どころか、経済効率を追い求める事のみに専念し、本来日本人 が持っていた大自然に畏敬の念を抱き、自身こそ自然の一部分であるとの認識を行により体感する事を忘れてしまっているのが現状である。

洞戸村では古来から、鎌倉、室町時代にかけては、山伏達の修行としての六社巡りであたが、やがて江戸時代の初期頃にもなると、詣でとしての巡礼人気が高ま り参詣的様相になって行った。しかし、明治の廃仏希釈と神仏分離により、この様な日本的霊性は速やかに解体され、ここ洞戸の高賀山を中心とした六社巡り信 仰も跡絶えることとなった。当然のことながらその山翔け(山伏の修行の一つで、山岳を走りながら移動する行)ルートもさっぱりわからなく、地元の老人達で さえ巡礼した事がないばかりか、六社巡りの言葉さえ記憶がないという。今では車で半日もあれば簡単に参拝できるが、その昔では行者達は二日間かけて六社を 巡ったという伝承を私は祖父から聞いている。事実、私は子供の頃、山師でありマタギ(猪や熊を撃つ事を生業)であった祖父と道なき道の獣道を幾度と無く歩 いたのだ。 

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妖魔の本当の意味

奈良時代初期に遡るが、そもそも何故この地に京(みやこ)から藤原高光公を頭に精鋭の大部隊までが武装してこなければならなかったのか?

洞戸市にはこの様にある :
「いつの日にかこの地に猿虎蛇という妖魔(頭が猿、胴体が虎、尻尾が蛇)が住み着き、夜な夜な人畜を襲ったという。それを聞きつけた朝廷はこの妖魔を退治 すべく、当時の最高実力者である藤原良房(ふじわらのよしふさ)に要請。良房は武官の高光を討伐司令官とし、かの地へと差し向けた。高光は多大な功績を治 め、六社に神を御奉りすることにより、妖魔の復活を封じ込め、結界を貼ったのが六社巡りだった。」

さて、果たして妖魔なる魑魅魍魎(ちみもうりょう)等は本当に実在したのであろうか?確かに世界各国には似たような神話や伝説はあるが、御多分に洩れず、 日本においても同じで、各地の民話や物語でもこれらの話は尽きることが無い。しかし、学術的視点からいうならば、全くナンセンスな話である事は容易に想像 がつく。ならばこれらの伝説などは一体何かと疑問が残る。今も昔も時の権力者達は事実や史実を隠蔽改竄する。所詮、歴史は勝者が祭り上げられ、未来永劫、 我々の記憶に留まることとなるが、いわんや、勝者があればそこには必ず敗者がなくてはならない。つまり洞戸史にまつわる妖魔とは敗者なのである。話は変わ るが、高賀神社の御神体が本殿の隣にある小さな社、八幡神であることはあまり知られていない。現在では住人でさえ知る人は無く、知らされてもいないだろう。

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シンボルマーク

この社には三つの不思議な模様が金版として刻まれている。月・星・太陽、これは三星と言い、古代朝鮮語らしく、天地人(天は7で天の気、地は8で地の気、 人は9で人の気)を現す意味である。また八幡御神体はスサノウノミコトで、八幡大社の総本山は京都八坂神社であり、初代宮司は渡来系の豪族秦氏なのであ る。また密教では牛頭天王と呼ばれている神仏合体の神でもあり、そのルーツを遡ると隣国朝鮮半島なのである。更に、月星太陽は単なる八幡信仰のシンボルで はないのだ。つまり月は体でウサギを現し、星は気で人の精神を現し、太陽は自然で三本足の八咫烏を現し、北斗星や北斗七星(チェルシン)信仰を現し、猿 族、虎族、蛇族といった部族の象徴シンボルマークだったのである。

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扶余(ぷよ)族

古代倭国(日本国と制定されるまで、大陸側から呼ばれていた地域名)には四世紀ごろより渡来人が入ってくるが、その大半が朝鮮半島からの人々であった。  更に、七世紀初頭より、三国(高句麗、新羅、百済)に分かれていたテクノクラート達が倭国に亡命、先に入ってきた渡来系民族と友好的または戦闘的融合を果 たし、新たに大和朝廷を樹立するに至る。中でも高句麗系の民族は日本列島の北は東北、中央は北陸、南は山陰・九州と日本海(東海)を海渡した。彼らは高句 麗人は扶余(ぷよ)と呼ばれ、高句麗建国の父と謳われた高朱蒙(チュモン)は中央亜細亜を駆け巡ったスキタイ(騎馬)民族の長である。高朱蒙より数えるこ と代38代、高句麗中興の祖と慕われた広開土王(好太王)は伝説的人物で、檀君始め高朱蒙に続く朝鮮民族の英雄である。私は2007年の中国の集安(旧満 州国で古代朝鮮発祥の地)にある38代広開土王の陵墓と39代長寿王の陵墓に赴き、その大きさに驚愕した。台形のピラミッドに組まれている一つ一つの石の 大きさは半端なものではなく、世界が知りえないオーパーツでもある。


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熊族(ヤ)、虎族(イェ)

さて、問題は高句麗人であるが、古来より彼らには二つの部族があるという。一つは熊を崇める熊族(ヤ)、一つは白虎を崇める虎族(イェ)である。実はこの 虎族の一部が先に日本に渡来、ついで熊族が渡来するも、この熊族には鉄の技術が旺盛で、しかも多県(あがた:県の意味)で進入した。故に、先住の自国民族 と日本国内で領土争いとなるのだが、その力は歴然たる開きがあった。中でも日本国内最大にして最高権力者のフィクサーは、藤原不比等である。彼の出生は朝 鮮半島扶余族である事は史実であり、語るまでもない。新生熊族は朝廷の名の元に新たな神を崇め、新日本国家を構築していくも、各地の深山幽谷に隠れ住む先 住民には手を駒ね、やがて彼ら先住民は鬼や妖怪と称せられ、奥へ奥へと追いやられたのである。中部から関東にかけての先住民族をえみしと差別的に名乗らさ れ、朝廷に屈服しない権化として抹消されていく事になる。つまり、高賀神社を中心とした六社巡りとは、古代先住民族の虎族(この仲間に猿族や蛇族がある) に新生熊族が新たな信仰を名乗り、討伐したことに始まる。また彼ら先住民族が再起できぬよう結界を張り巡らし、それを山伏達が監視したのである。

七世紀以前には、高賀神社に牛を燔祭(生け贄)とする風習があったと伝承されている。 (高賀地区には牛戻りの橋の橋があり、この橋を渡った家畜類は帰ることがなかったと伝えられている) いつ頃からか、それらの神事がなくなり、今では長野 県諏訪市諏訪大社の御柱祭においてのみ継承されている。さて藤原高光公に従い、後に村に残り里山伏と変貌していた豪族こそ、ふじわらの武者所を司る武藤家 にほかならないのである。現在の洞戸村高賀地区こそ藤原北家清和源氏発祥の武藤一党であり、私はそこの出生の武藤を名乗る。私が六社巡りの復興を志したの は、悪き歴史的因縁の抹消と、純粋なる巡礼としての信仰、並びに私の祖先が行っていた高賀修験道の復活を試みたかったからである。


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